ブルマ・・・。 [思い出がいっぱい]
ブルマ・・・。
ブルマなんて書くと、別な所からのアクセスが増えそうですが・・・。
現在は全く見られなくなったブルマ、僕が中学生の頃はまだまだ現役でした。
僕が中3の頃の出来事です。
朝礼で、全校生徒がグラウンドに集合。
校長の長い話のあと、保健体育の女性教師(ご年配の方)がツカツカと
朝礼台に上り、おもむろに、
「今日から『ブルマ』を『フリーマー』と呼びます!」
と宣言。この日を境に、僕の中学校ではブルマの事をフリーマーと呼ぶことになった。
この出来事、その頃は深く考えずに、
「あ。きっと正式名称がフリーマーっていうんだろうな・・・。全国で統一されたんだ。」
と思っていた。
しかし、高校ではブルマはブルマだったし、ブルセラショップのブルはブルマのブルだ。
最近このことを思い出して、彼女に聞いてみても、ブルマをフリーマーと呼んだ事などなかった。
疑問を持ったまま生活するのはしんどい。
ネットで少し調べてみようと思い、会社の昼休みに「ブルマ」を検索にかける。
・・・いかがわしい通販サイト。売ります。買います。・・・いや、僕はそぉゆう感じじゃ・・・。
うーーん。ちょっと会社じゃ調べられない・・・。
家に帰って、調べてみる。
どうやら、四国地区では、ある時フリーマーと呼んでいた事があるみたい。
しかし、何故なのかはわかりませんでした。
ブルマ業界の人、またはブルマに詳しい人の情報提供お待ちしてます。
そういえば、それにまつわる事で、こんな事がありました。
中3の体育祭。前日に行われる総合リハーサルでの出来事。
整列する女子生徒たちに向けて、体育教師兼、生活指導の男性教師が、
「体操服はブルマにいれろーー!」
(体操服の上は裾をキチンとブルマに入れろ)
と叫んだ。その直後、横にいた例の女性教師にボソッと何か言われ、すぐに、
「体操服はフリーマーにいれろーー!」
と、全く同じトーンで繰り返したのだ。なんだか面白かった。
100記事目記念!イラストで振り返るヒザ小僧の日記帳。 [思い出がいっぱい]
ついに100記事目を迎えることが出来ました。
めんどくさがりの僕が100個も記事を書くなんて、驚きです。
100記事目記念としまして、いままで書いたイラスト記事を振り返りながら、
しみじみしたいと思います。
イラストをクリックしたら、その記事にリンクするようにしときます。
記念すべき、イラスト第一号。冬虫夏草です。
前記事プラナリアで写真を載せて、それが気持ち悪いと不評。
それがきっかけで、イラストを描いてみました。cwataさん、ありがとう。
ハイ。オバンバです。知ってる方も知らない方も、是非読んで欲しい記事です。
この辺から自分のblogの方向性が見えてきた気がします。
オリジナルキャラクター。着ぐるみの中の人ってどんな顔してるんだろう。
という内容です。この絵に隠れたヒミツに気づいてツッこんでくれたのは、
唯一、しんたろさんだけでした(笑)
これまた思い入れの深い記事ですね。子供の頃の思い出を書き出したのも、
この記事から。笑える話です。
カラーじゃないし、全く適当な記事だなぁ。
ダイエット、どうやら成功したようで、さらに少しやせてます。
さあ、やってまいりました。ついに、動き出した僕のイラスト。
読み返してみると、なんとも変な記事。
みなさん、こんな変なblogに付き合ってくださって、ありがとう。
こんな記事もありました。みなさん、実際やってみたりしてくれたかなぁ。
相変わらず動いてますね。GIFアニメにハマっている頃です(笑)
爆音バイカーにチクリと言った、メッセージ性の強い記事です。(どこが・・・)
全く持って、意味不明なイラスト。なんなんでしょ。このテンションの高さは。
説明すると、ビオフェルミン、おいしいよ!っていう内容です。
イラストは・・・。説明できません。
この記事は好きです(笑)ちゃんと文章になってると思います。
優しい時間、終わっちゃいました。スペシャルとかあるんですかね?
富良野に行ってみたいです。
全裸やら、尻やらの記事が多くなったのはこの記事からでしょうか(笑)
誰でも経験のある、家の外に放り出された話、全裸版ですね。
瞬間移動な感じが割と出てて、気に入ってます。
かなり時間がかかったのも覚えてます。
GIFアニメ、小出しにすれば良かったと、後悔しだした頃です(笑)
自画像。かなり良く似てます。
ターバン巻いて、インド風味なんですが、ちょっと分かりづらかったかも。
内容は、角質クリアジェルを使って、自分の肌にウットリ。
写真写りの悪さに、落胆しました。
この時の写真は履歴書には貼らずに、彼女に撮ってもらった写真を貼りました。
先日、電話がかかってきて、面接の日時を伝えられました。
書類選考は通ったみたい。
記念すべき、最高nice!作品(多分)。
見てない人のために、オチのアニメはここでは載せませんでした。
是非、ご自分の目で確かめて欲しい。
ソースの噴水。ウスターでした。
ヒッくん、どうしてるだろ・・・。
哀愁ただよう鬼六。最近ではお気に入りの記事かな。
悲しそうな瞳がなんともいえません。
さて。春の訪れとともに書いたこの記事。
これにて、100記事目記念!イラストで振り返るヒザ小僧の日記帳。
終了です。
長い記事、最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
明日から、またがんばります!
おまけぇ。
papaさんのトラバ企画のイラスト2点。
パンダマンはお気に入り。ロケットパンチは、苦しかった!
おまけぇ。2個目。
リクエスト、ありましたので、こちらの絵で落とさせていただきます。
毛のはなし④ [思い出がいっぱい]
毛の話も今回で最終章。
初めての方はこちらを参照
毛のはなし①(太もも毛と脱毛クリーム)
毛のはなし②(太もも毛再び)
毛のはなし③(足の親指毛の存在する意味)
取り扱う毛は、あの毛、そう。ケツ毛・・・。
ケツ毛を語るには、私の幼少期、あの出来事までさかのぼらねばならない。
幼い私は兄と共に、島根の祖父母の家を訪れていた。
祖父は孫である私達をこよなく愛してくれていた。
そんな祖父と一緒にお風呂に入った時のことだ。
兄が小声で耳打ちをする。聞くと、祖父の尻に毛が生えているのを発見し、
それを私に教えてくれていた。
祖父の耳には入らないよう、その場では笑わなかったが、風呂から上がり、
祖父と別々の部屋になった時点で、私と兄は祖父のケツ毛の話題で盛り上がった。
数年後、そんな話も忘れ去った頃、驚愕の出来事が僕を襲った。
おそらく高校生の頃だったと思われる。
入浴中、湯船に浸かっていると、尻に当たる水流の感触に違和感を覚えた。
恐る恐る尻を触ってみると、ファサ~~・・・と、指先に毛の感触。
ついにこの時がきた!私も祖父のようにケツ毛を生やす時が来てしまったのだ。
恐るべし遺伝子。この遺伝情報だけは伝えないで欲しかった・・・・。
私はその現実から逃れるべく、湯船でケツ毛をむしった。
来る日も来る日もむしり続けた。
しかし、一向に毛がなくなる気配等無く、むしろ、毛は1本1本が濃さを増し、
毛根は強く鍛えられていった。
そしてついに、むしる事など出来ないほどに強固な存在になってしまった。
そして、私は禁断の果実に手を出してしまう。
そう、脱毛クリーム・・・。
脱毛クリームをそぉーーっと尻に塗り、他の所に付かないように、
尻を突き出した間抜けな格好(もちろん全裸)で待つこと15分。
強固なケツ毛も科学の力には勝てず、キレイさっぱり溶け去った。
誰に見せる訳でもないが、その日はぐっすり眠れた。
しかし、毛根は生きている。数ヶ月もすると、ケツ毛は元通り、ワサワサと生えてきた。
そして、私は再び脱毛クリームを手に取った。
1度目の経験からか、私の心には余裕があった。
しかし、その余裕は思わぬところで悲劇を招いた。
私は、15分という長丁場、全裸で過ごさなくてはならないのを知っていたため、
湯船で体を温めてからクリームを塗った。体はビショビショに濡れた状態で・・・。
クリームは水溶性だった。尻にこんもり塗られたクリームは、
水分で緩くなり、流れ出した。太もも、スネ、そして、男の大事な部分もじわぁーーっと回り込むように・・・。
僕はその状況を見守りながら、水で薄まっているから大丈夫だろうと思っていた。
しかし、科学の力は甘くなかったのだ・・・。
15分が過ぎ、全身をお湯で流すと、尻はキレイ。ツルツルだ。
太ももも・・・。ツルツルだ・・・。そして、そして・・・。下腹部は・・・。
まだら。
まだらに残った毛。
私は猛烈に後悔した。
それ以来、私はケツ毛との共存の道を歩んでいる。
毛のはなし① [思い出がいっぱい]
許せない事がある。それも、自分自身についてだ。
僕はシンメトリーが好きだ。
左右対称でないと、ちょっとしっくり来なくて、気分が悪い。
なのに、僕の太もも毛は、右の方が明らかに濃い。これが許せない。
太ももに濃い毛が生え始めたのは、中学生ぐらいの頃だろうか。
風呂に入っていると、ふと気づく。
「お。右の太ももに毛が・・・。」
左の太ももにはまだ生えてなかったが、そのうち両方生えそろうだろうと思っていた。
しかし、左右の差は埋まらず、右がキッチリ大人の毛になった頃、
左はまだチラホラ生えている程度。
シンメトリがその頃から好きだったかは分らないが、
風呂に入るたびに、右の濃い毛の方に憎しみは強まっていった。
そして、その憎しみが頂点に達したとき、僕は信じられない行動をする。
その日、風呂の洗い場にて、思考が憎しみの余り正常でない僕の目に入ってきたのは、
姉が使っていた、脱毛クリーム。
僕は迷わずそれを手にとって、右の太ももに塗った。
脱毛クリームの威力は予想以上だった。
右の太ももの毛は溶けて、全て無くなってしまった。
そうなると、今度は左ももに毛があることが許せなくなってくる。
僕の手は再び脱毛クリームに伸びた。
僕の両脚は見事つるんつるん。シンメトリだ。
しかし、憎しみが過ぎ去り、正常な思考を取り戻したとき、
僕は自分のした愚かさに気づく。
それからしばらく、体育のとき、部活のとき等、みんなと一緒に着替える時、
僕は教室のすみっこでコソコソ着替えることを余儀なくされる事となる。
つづくかも・・・。
助演男優賞 [思い出がいっぱい]
僕は演劇で準主役を張った事がある。
あれは確か、小3のとき、「6年生を送る会」だった。
各学年ごとに出し物を決め、クラス合同でその出し物を完成させ、
それを卒業する6年生にありがとうの気持ちを込め、披露するというもの。
3年生の出し物は演劇。演目は強制的に「大工と鬼六」に決定。
少しマイナーな昔話なので、簡単にスジを言うと、
目玉大好き、鬼の鬼六が、大工の代わりに急流に橋を掛けてあげて、
大工に向かって一方的に
「代金に目玉くれよ」
と迫るが、大工がなかなかくれないので、
「じゃ、じゃあさ!数日待ってあげるからさ!
それまでに俺の名前当てたら許してやるよ!!
でもさ!わかんなかったらさ!め、目玉ちょ~だ~い!?」
と言い、結局、大工に名前を当てられて、
しょんぼりっていう話。
B組からはK松君が、大工に抜擢。
そして、A組からは、僕が敵役の鬼に抜擢された。
僕は緊張しぃなので、恥ずかしい反面、選ばれた事自体は非常に嬉しく、
快く引き受ける事にした。
毎日行われる練習。セリフを覚え、身振り手振りを加え、表情を作り、
僕は一生懸命鬼六になりきった。
そして、初めてのB組との合同練習の時、僕は先生から差し出された物に目を疑った。
それは、ダンボールに鬼の顔が書かれ、目と耳の所に穴が開いた、鬼の面だった。
すっぽりかぶるタイプだ。
鬼の役作りで表情まで作っていた、僕は急に恥ずかしくなった。
コレ、かぶるなら、表情いらないじゃん・・・。なんで一言言ってくれないんだ・・・。
と先生を恨みながらも、発表が近かったため、練習に打ち込むことにした。
そして当日。僕は頑張った。箱の中なので、声がこもるため、いつもより声を張り、
今までの練習の成果を全て出し切った。
拍手喝采を浴び、劇は大成功に終わった。
自己評価だが、僕の演技は主役を完全に喰ってた。
劇の直後、大工役のK松君は転校した。同じ町内の引越しだが、
校区が変わったため、転校となった。
K松君とは1度も同じクラスになった事も無かったし、仲良く遊んだ訳でもない。
しかし、大工と鬼六で競演した事で、仲良くなれるかもと思っていたので、
転校は、少しショックだった。
そして、時は経ち、僕が小6になった頃、僕はバッタリ町でK松君と出会った。
僕はフレンドリーに駆け寄り、
「オッス!元気!?」
と声を掛けた。しかし、K松君の口からは、
「すいませんけど、どちらさまでしたっけ。」
と驚愕の言葉が発せられたのだ。
その時僕は、
「鬼だよ!大工と鬼六の鬼!!」
と自分を指差して、悲しい説明をする他無かった。
ま、合同練習の時は、スッポリ被ってたし、仕方ないよね・・・。
と、自分に言い聞かせながら・・・。
僕のいた証 [思い出がいっぱい]
忘れもしない出来事がある。
それは僕が小学2年生の時だ。
給食の時間、アジフライか何かのために添えられた、小袋入りのソースを握りつぶしたくなった。
やっちゃいけない事はついついやりたくなるものだが、
僕は理性が働き、ギリギリのところまで力を入れては止め入れては止め
を繰り返していた。
しかし、そのニギニギもだんだんと力が強められたようで、
遂にはソースは袋からブシューー!!と解き放たれた。
噴水のように僕の手からソースが噴きあがり、教室の天井にまで達し、
更には前の席にいたヒッくん(あだ名。後にヒッさんへと格上げされる)
の真っ白なカッターシャツを褐色に染め上げた。
もちろん、こっぴどく叱られて、ヒッくんには平謝り。
モップで天井も掃除させられた。
カッターシャツは弁償すれば済んだが、教室の天井は茶色いシミが残り、
僕はこのシミを見るたびに嫌なことを思い出す小2時代を送った。
時はたち、小6になった頃、僕はふとこの事を思い出した。
あのシミ、まだあるだろうか。と思い2年生の教室を覗いてみると、
色あせていたが、シミはまだあった。
その時は嫌な気持ちよりもなんだか自分の証がここにある。
みたいな気持ちになり、うれしかった事を覚えている。
あのシミ、まだあるかな・・・。
飛び出せ!青春! [思い出がいっぱい]
僕は、中学生の頃、陸上部に所属していて、モテモテだった。
人生で一番モテた、モテ期の絶頂だったが、今日の話はモテモテだった話とは全く関係ない。(ささやかな自慢)
その陸上部で行われていたストレッチに、地面に尻を付けて座り、
両足裏をくっつけてそこを両手で持ち、ヒザを上下に動かすというものがあった。
こんな感じで。おそらく股関節のストレッチだったのだろう。
ある日、一人部活に遅れた僕が、グラウンドに着くと、
ちょうど部員全員がこのストレッチを行っていた。
遠くからその光景を眺めていた僕は、ふいに、
「こいつら、このまま飛んで行きそうやな・・・。」
という、妄想モードに突入してしまった。
ちょっといい話 [思い出がいっぱい]
僕の彼女には5歳年下の妹がいる。
彼女から聞いた話だが、彼女が小学生に上がるか上がらないかの頃、
母親にこっぴどく叱られ、お仕置きに家の外へ放り出された事があるらしい。
彼女が家の外で泣いていると、まだハイハイだった妹が、
家の中から窓越しに彼女を見つけ、
お姉ちゃんがかわいそうだと思ったのか、大声で泣いたということだ。
あまりに泣くので、手を焼いたお母さんが彼女を家に入れてやり、
その騒動は収まったらしい。
この話を聞くと、窓を挟んで大泣きする幼い姉妹の絵を想像し、
ジーーンとしてしまう。
我が家にも似たような話はある。
僕が小学校3・4年生の頃の夏場、風呂上りの僕は、全裸で涼みながらドリフを見ていた。
ドリフに熱中した僕は、母親が再三、寝巻きを着ろと言っているのを
生返事で返しながら、ずっとドリフで笑っていた。
30分ぐらい全裸で過ごしただろうか、ふと、背後に殺気。
振り返ると、鬼にも見紛うばかりの母親の姿。
無言だったが、僕が全裸で居続けた事に激怒しているのは間違いない。
おもむろに母親の両手は僕の両脚をむんずと掴み、綱引きでもするかの如く、引っ張り出した。
方向は・・・。そう、玄関。
なんと、母は全裸のまま僕を外へ放り出そうとしていたのだ。
ウチは団地だったため、玄関ドアの向かいには階段室をはさみ、すぐ隣の家のドアがある。
泣き叫べば、団地中を泣き声が響き渡るため、すぐに叱られた事がバレてしまう。
しかも、校区が団地で同じため、同じ学校に通う友人も多数団地に住んでいる。
そんな状態の中で、全裸で外に放り出されるという事は、
自分の将来に深い影をもたらすと感じた僕は、必死で抵抗。
しかし、母の力は信じられないほど強く、あっという間に玄関直前まで引きずられた。
ドアの鍵が開けられ、今、暗い将来へのドアが開け放たれようとする瞬間、
「それだけはやめてあげて!」という、兄と姉の声。
顔を見ると、半笑いだったが、2人の懇願は、怒りに我を忘れた母に冷静さを取り戻させ、
僕は無事、今もそれなりの人生を歩める事となった。
あの時の2人に感謝し、深い絆の証として、僕の心にこの話は一生残るのである。
↑怒りに我を忘れた母を収め、我が家を青き清浄の地へと導いたのは、僕の兄と姉の2人だった・・・。
理想と現実 [思い出がいっぱい]
突然だが、僕は超能力者だ。
特に瞬間移動が得意で、自分のイメージどおりの場所に瞬時に行ける。
・・・と、思い込んでいた時期がある。
そう。このblogを読んでくれている人ならわかるかもしれないが、
今より数倍変わり者だった、小学生時代だ。
小学生時代、僕は友達は多かったが、たまに一人で帰る時もあった。
一人で帰るときの家への道のりは果てしなく遠い。
「遠い道を歩くとき、歌を歌えば近い♪」などと、
小公女セーラのエンディングを歌いながら帰ることもしばしば。
そんな長い道のりの中で、考えることは、
家まで瞬間移動で帰れるといいな。という事だった。
そして、しばしば僕はそれを練習していた。
いきなり家まではムリなので、次の電柱ぐらいまで、瞬間移動してみようと考え、
歩きながらギュッと目をつむり、次の電柱をイメージ。
シュン!という音とともに瞬間移動が行われ、
目を開けるとイメージした電柱まで瞬間移動している。
ハズなのだが、やはり、一朝一夕ではうまくいかず、
沢山練習しなければ・・・。と考えていた。
そしてある日、なかなか上手くいかない事に、業を煮やした僕は、
ちょっとやり方を改めてみようと思い、
目をつむる時間を長くし、歩みも少し速くすることに挑戦した。
「シュン!シュン!」と連続で瞬間移動を成功させ、
さあ!もう一回ジャンプすれば目を開けてやる!と思った瞬間だった。
ゴッ!!という重い音とともに、頭に走る激痛。
目を開けると、そこはイメージした地点などではなく、
頭上に揺れるのは道路標識。
いつしか小走りになっていた僕は、一直線に道路標識のポールに突進し、
頭から激突!
大きなコブを作って、落ち込んで帰宅。
母にどうしたと言われても、瞬間移動に失敗した事は決して話さず、
それ以来瞬間移動のトレーニングも行われることは無かった・・・。
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・